本多忠勝(天文17年/1548年〜慶長15年/1610年)
Tadakatsu Honda
天文17年(1548年)三河国洞村(現在の愛知県岡崎市洞町)に生まれる。幼名は鍋之助。
幼き頃より徳川家康に仕え主君の為に生き抜き、家康家臣の武功派筆頭にあげられる。
徳川四天王のひとり。13歳の時、桶狭間の戦いにからむ大高城への兵糧米の搬入が初陣。
以後毎年のごとく出陣し、常に先陣を切り50数回の戦で、傷一つも負ったことがないと
言われている。天正18年小田原の役の後、豊臣傘下の家康が関東に移封されるのに伴い、
安房の里見氏に対する備えのため上総国庁南城(千葉県長生郡長南町)守備の後、
上総国大多喜10万石(千葉県夷隅郡大多喜町)を与えられ家康側近の城持ち大名となる。
時に43歳。その後、関ヶ原の戦いまでの10年間、心血を注ぎ堅牢なる大多喜城を築城し、
城下を整備した。慶長5年、家康の会津征伐に出陣し、その後関ヶ原の戦いへと出陣する。
慶長6年、伊勢桑名10万石(三重県桑名市)に移封となり上総国大多喜5万石は次男、
忠朝に分与された。数々の武功を立ててきた忠勝も晩年は家康の幕藩体制の組織固めに
より官僚型の人材に取って代わられ、次第に中央から遠ざけられていった。そんな晩年に
描かれたのが、有名な「紙本著色本多忠勝像」(千葉県立中央博物館所蔵)である。
土佐派の画師により描かれたこの肖像画は、幾度となく描き直しされて9幅目にやっと
完成を見た。忠勝の心の師である良信寺(現 良玄寺/大多喜町)了学上人に送られた。
その後、天下無双の猛将は大坂の陣に参戦することなく、慶長15年(1610年)10月
桑名で静かに没する。享年63歳。遺骨は分骨され桑名と大多喜に今も眠る。
◀「紙本著色本多忠勝像」千葉県立中央博物館所蔵/関連リンク
私画本多忠勝
本多忠勝、本多忠勝関連を中心としたデジタルイラストです。随時、新作を追加していきます。
烈 火記念すべき忠勝画第1号。第93回二科展デザイン部入選作です。 |
疾 風同じく第93回二科展デザイン部…選外作品。 |
忠勝と大多喜城地元大多喜城と忠勝公。第58回千葉デザイン展入選作。 |
三国黒を駆って愛馬、三国黒を駆って関ヶ原の合戦に出陣する本多忠勝。第94回二科展デザイン部入選作です。 |
徳川三傑徳川三傑そろい踏み。第58回千葉デザイン展、千葉県知事賞受賞作。 | ||||||||||||||
葵の御旗のもとにタッチを変えて。本の字の軍旗、実にシンプルです。鐘馗の軍旗もあります。 |
死 闘姉川の合戦から、真柄直隆との死闘。 |
疾 風 弐「疾風」のリサイクル。デジタルの良いところです。 |
立ち葵と本多忠勝「死闘」の忠勝公をリサイクル。表情を変えました。 |
いざっ!いざっ!出陣。天下分け目の戦いへ! | ||||||||||||||
月代姿の忠勝公月代姿の忠勝公。もちろん想像です。制作中の他作品の1パーツです。 |
月代姿の忠勝公 弐月代姿の忠勝公パート2。前より少し描き込みました。ちょっと顔が変わってしまいましたが・・・。 |
若武者13歳だと老け過ぎですね。もう少し、20歳前後の本多忠勝。その他コーナーに側室とのツーショット。 |
本多忠勝習作、タッチを変えて。ラフタッチで個人的に好きな雰囲気です。 | |||||||||||||||
天守















